展示資料目録
1. 鴟尾 百済様式 (米原市磯廃寺採集品) 当館蔵
2. 国友鉄炮記 個人蔵
3. 八木奇峰筆 四季花鳥図 個人蔵
4. 銅造如来立像 長浜別院大通寺蔵
5. 壱万哩記念 鉄道競争すごろく 当館蔵  
                 など 
★西原学芸員のイチオシ!
 湖北のあけぼのを知る貴重な考古資料を集めました!
 
▲1.鴟尾 百済様式 (米原市磯廃寺採集品)
1.鴟尾 百済様式 (米原市磯廃寺採集品)  白鳳時代(7世紀後半頃) 当館蔵

  鴟尾(しび)とは、古代宮殿や寺院仏殿の大棟の両端を飾る装飾です。瓦質のもので、正段(しょうだん)と縦帯(じゅうたい)および胴の部分が残存します。全体的に灰白色を呈し、焼成は良好です。この鴟尾は、形状から百済様式で2本の縦帯を有します。磯廃寺は滋賀県を代表する古代寺院で、鴟尾の出土から大陸系渡来人(百済人)の協力のもと、寺院造営が行われたと考えられます。大陸系渡来人は、『日本書紀』等の記録によれば朝鮮半島での戦乱(朝鮮三国:高句麗・新羅・百済による戦争)から逃れた人々や、技術や文化の指導のため、朝廷の懇願によって来日した人々がいました。特に日本(倭国)と百済(朝鮮半島南西部に存在した国)との関わりは強かったのです。県内からは、多くの渡来系の遺跡が見つかっており、磯廃寺もそのひとつと言えるでしょう。

★岡本学芸員のイチオシ!
 国友ゆかりの鉄砲に関する資料を集めました。話題の直木賞受賞作品『塞王の楯』に思いを馳せてみてください!
 
▲2.国友鉄炮記 紙本墨書 寛永10年(1633) 個人蔵
2.国友鉄炮記 紙本墨書 寛永10年(1633) 個人蔵

 寛永10年(1633)に惣鍛冶が国友鍛冶の歴史について書いた記録です。資料中にはいくつか疑問の箇所がありますが、鉄砲の起源や伝来に始まり、徳川家康によって惣代4人が鉄砲代官に任じられるまでの出来事が記されています。
 この資料によると、天文8年(1539)に薩摩の島津義久から鉄砲を献上された将軍足利義晴が天文13年(1544)2月に鉄砲鍛冶を探し、近江国坂田郡の国友に善兵衛・藤九左衛門・兵衛四郎・助太夫らがいることを知り、将軍は見本として鉄砲一挺を彼らに渡して製作を依頼したことが国友鉄砲鍛冶としての第一歩であったといいます。 
 国友の鍛冶は懸命に鉄砲を作り、銃尾の塞ぎ方が分からず苦心しますが、たまたま鍛冶の次郎助が欠けた小刀の刃先で大根をえぐったところ、欠けた部分が筋になってネジができたといいます。そうして出来上がった鉄砲2挺を将軍に献上し、その後さらに多くの鉄砲を献上したとあります。

 ★井並学芸員のイチオシ!
 長浜の絵師・八木奇峰(やぎきほう)による華やかな花鳥画の世界をご堪能ください!
 
▲3.八木奇峰筆 四季花鳥図 絹本著色 明治時代 個人蔵
3.八木奇峰筆 四季花鳥図 絹本著色 明治時代 個人蔵

 桜、杜若(かきつばた)、芙蓉、牡丹、竜胆(りんどう)など四季折々の草花が咲き、鳥たちが集まってきています。
 作者の八木奇峰(やぎぎほう・1804-1876)は長浜市下八木町出身の絵師。長浜で狩野派の絵師・山縣岐鳳(やまがたきほう)に師事したのち上京し、四条派の松村景文(まつむらけいぶん)の門下に入門。京都画壇で活躍する傍ら、地元にも多くの作品をのこし、四条派の華やかな作風を伝えました。
 全体に柔らかな色味を用いており、鳥は淡彩によって簡略に描き、一方で草花は彩色のグラデーションを使ってその質感も再現しています。また、複数のモチーフを画面奥から手前へ重層的に配置することで、奥行きある空間を生み出しています。
 華やかさの中に落ち着いた趣があり、絵師として円熟期を迎えた奇峰の優品です。

 ★坂口学芸員のイチオシ!
 長浜を代表する寺院である大通寺に伝わる至宝を紹介します。
 
▲4.銅造如来立像  鋳造・鍍金 朝鮮・統一新羅時代(8世紀) 長浜別院大通寺蔵
4.銅造如来立像  鋳造・鍍金 朝鮮・統一新羅時代(8世紀) 長浜別院大通寺蔵

 真宗大谷派寺院である長浜別院大通寺(だいつうじ)は、真宗の信仰が盛んな湖北を代表する寺院です。その歴史は、戦国期、湖北の本願寺門徒と織田信長との戦いの頃に設立された「総会所(そうがいしょ)」に遡るといわれます。
 江戸時代に入り、初代住職として霊瑞院宣澄(れいずいいんせんちょう)が迎えられた頃に、「総会所」が大通寺と呼ばれるようになったようです。宣澄は、東本願寺第13代門主・宣如(せんにょ)の三男であり、それ以降、大通寺の住職は、東本願寺の門主の子や兄弟、彦根藩井伊家から迎えています。このように湖北においても格式高い寺院として、湖北の真宗信仰の中心地となって栄えた大通寺には、貴重な宝物が多数伝わっています。
 そのうちの一つが、今回紹介する《銅造如来立像》です。本像は、型による鋳造(ちゅうぞう)で鍍金(ときん)が施された如来像で、やや重苦しい表情といった作風から、朝鮮半島を初めて統一した新羅(しらぎ)で8世紀頃に制作されたと推定されています。
 大通寺に伝来した経緯は不明ですが、本像のように、古代に遡る朝鮮半島から請来された仏像は市内でも珍しく、大変貴重な如来像といえます。長年の経年変化から、緑青が出ていますが、青色が映えた独特の趣を感じさせてくれます。 
 小柄なお像ですが、1,300年以上前に制作され外国から伝わったという歴史的背景を想像しながらご覧ください。

 ★福井学芸員のイチオシ!
 今年は長浜―敦賀間に鉄道が開通して140年!長浜城で旅気分を味わっていただこうと、「鉄道・旅」をテーマに資料を選びました!
 
▲5.壱万哩記念 鉄道競争すごろく 大正14年(1925)発行 当館蔵
5.壱万哩記念 鉄道競争すごろく 大正14年(1925)発行 当館蔵

 このすごろくは、大正14年(1925)に国内の鉄道路線が1万マイル(約1万6千キロメートル)に到達した記念に大阪毎日新聞と東京日日新聞(いずれも毎日新聞の前身)の両社が作成したものです。前年に実施した「鉄道一万マイル哩競争(※注)」をすごろく化したもので、大阪毎日新聞の正月号付録として配られました。
 記載された説明によると、サイコロを振って、一番早く全国各地の主要な駅を回って帰った者が勝ちとなります。当時の主要な路線、駅名、各地の特産物、名所、そして当時の世界情勢を反映してか、軍事的要衝も描かれています。飛行船型の気球に乗った子どもたちの楽しそうな様子が印象的で、滋賀県に注目すると、描かれる琵琶湖が文字通り“琵琶”の形をしているのがユニークです。
 日清・日露戦争の頃、日本は産業革命を迎えますが、鉄道網を整備することは、産業を発展させる上で欠かせないものでした。長浜-敦賀間の鉄道敷設から7年後の明治22年(1889)に官営の東海道線が全通し、民営の鉄道も全国各地に建設されていきました。日清戦争後には国内の主要幹線がほぼ完成しており、明治39年(1906)には鉄道国有法により、民営の幹線鉄道は、経営の一元化による輸送の効率化と軍事輸送の強化を目的として国有化されました。
 鉄道網は、日本の経済発展の基盤となりました。


※鉄道一万哩競争…大正13年(1924)8月から9月にかけて大阪毎日新聞と東京日日新聞の両新聞紙上で実施された企画で、鉄道省後援のもと行われた。両社から記者を5名ずつ選抜し、全国の路線をリレー方式で乗り継ぎ、その早さを競うと共に、それぞれの記者が競走中の体験を記事にした。

 
 
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